太気拳とは

 澤井健一が、中国において意拳(太成拳)宗師 王薌齋より学んだ武術を元に師の許可を得て創始した拳法である。「立禅」「揺り」「這」「練」に代表される内功を基本とする独特の練習体系を持つ。実戦における実力の高さで知られている。

 

<意拳(大成拳)の歴史>

 意拳は別名を大成拳という。1920年代、中国の王薌齋によって創始された実戦拳法である。 王は中国河北省深県に生を受け、幼少の頃より形意拳の稀代の名人と称された郭雲深のもとで武術を学んだ。郭は王の素質を見抜き、他の弟子とは異なるやり方で王を鍛えた。その方法とは、形意拳の基本であった套路(型)中心の練習ではなく、静的な稽古である站椿(たんとう)を徹底的にやらせることであった。こうした練習にはじめは疑問を抱いていた王も、やがて師の力の源がこうした地味な練習にあることを悟り、さらなる猛稽古を続け、武の実力を高めていった。

 師・郭雲深の死後、王は中国国内における武者修行を開始。他流との交流の中で、それぞれの武術に共通するエッセンスともいうべきものを発見した王は、それを郭より学んだ武術と融合させ、新しい拳法を創始した。それは站椿を重要視し、形意拳に伝わっていたわずかな型すら廃した独自の練習体系を持つ武術であった。この拳法の名称の起源については諸説あるが、「形意拳より形を無くした」という意味で、創始者である王が「意拳」と呼んだという説が有力である。

 意拳創始後も王は国内外の武術家と試合を重ね、これをすべて打ち負かした。これにより武術家としての王の名声は揺るぎないものとなり、やがて「国手」(国家を代表する拳法家)という称号を受け、その居を中南海に構えた。さらには、王の意拳の評判を知った当時の北京市長・張壁等の有力者が「中国拳法を集大成した拳法」との意味を込めて「大成拳」という尊称を贈り、大成拳の名は王の拳法の通称となった。

 

<太氣拳の歴史>

 1931年、日本人・澤井健一は、中国にわたる。、軍の任務で中国大陸は満州に滞在していた。その後北京へ移る。澤井は福岡県に生まれ、幼い頃から武術に親しみ、隼流館(双水執流?)、講道館柔道、剣道、居合道等の流派を学んだ。柔道5段、剣道4段、居合道4段の澤井は、ある日中国人の友人から「国手」王郷齋についての噂を聞く。友人の紹介で王に面会し、手合わせをする機会を与えられる。当時の澤井は30代も半ばの最も油の乗りきった屈強な男。対する王は痩身で小柄な老人。澤井の勝利は揺るぎないものに思えた。しかし、実際に試合がはじまってみると、澤井の繰り出す柔道の技は王に完璧に封じ込まれ、それならばと剣道の技で挑みかかっていったが、これも棒切れ一本を持った王に簡単に払われ、澤井は大敗を喫した。

 これにより、完全に自信を失った澤井は、熟考の末、王への弟子入りを決意する。外国人の弟子を持たない主義の王に、はじめは門前払いを食った澤井であったが、決して諦めることなく、毎日王のもとへ馳せ参じて入門を懇願した。澤井の熱意を汲んだ王は、約一週間後に澤井の入門を許可するのだが、その際に澤井は「決してこの武術の修行を止やめません」という血書まで書いたという。姚宗勲(1917~1985)に預けられた澤井は、站椿を中心とした意拳の練習を開始。その後、王から直接指導を受けるようになった澤井は、姚等兄弟弟子と共に厳しい練習を続けた。

 1945年8月。終戦。日本への帰国を果たした澤井は、師の教えを遵守し、一人で站椿を中心とした稽古に励んだ。そして、王郷齋の命を受け、澤井は意拳にかつて自らが修行した柔道・剣道・居合道等の武道の要素を加え太氣至誠拳法を開いた。

 太氣拳創始後も道場を構えることも無く明治神宮において指導を開始した。太氣拳独特の站椿を中心とした練習と、その後行われる激しい組手、しかも圧倒的な武の実力を誇った澤井の存在によって、神宮の杜における練習は貴重な修練場であった。

1988年7月。澤井健一永逝。